人種のルツボでカリフォルニア生活 -7ページ目

ネイティブアメリカンとジュエリー

 その昔、すりつぶし解熱剤として服用されていたターコイズ。地球上に誕生したこの美しい石は御守りとて、霊力を司る『神の石』としてネイティブ アメリカンの生活と共に生きてきた。
          

 そもそもネイティブ アメリカンがシルバージュエリーを作り始めたのは19世紀半ば。スペイン人からメキシコ人に銀細工の技術が伝わり、それをメキシコ人がアメリカ南西部に暮すナバホ族の人々に伝えた。そしてナバホの人々は銀とターコイズを組み合わせ、独自のジュエリーを生み出したのだ。その後、それが周辺の部族へと伝わり様々な石や貝なども取り入れられ、シルバージュエリーの技法は部族毎に大きな特徴を持ち守られてきた。


 ネイティブ アメリカンのジュエリーは全てハンドメイドである。デザイン、加工、仕上げまで全て1人のアーティストが作り上げる。それはまさに世界にたった1つの芸術作品である。

 その中でもズニ族のニードルポイントの技法は私の心を捕らえて離さない。石を細く薄くカットし、それを銀の枠にはめ込んでいく技法である。あまりの細かさに、そのアーティストのほとんどが女性だ。


5.20.05  この厚みと迫力、そして目を見張る細かさと精密さのニードルポイント。後ろにはそのアーティストの名前、そしてZUNIと誇らしげに刻み込まれている。世界中を捜しても同じ物は2つと無い、私の大切な大切な宝物だ。


               5月20日 00:39



                              

ニコール

 バスに乗りこむと、1番奥の座席にニコール(関連記事 )を発見した。ちょうど高校生の下校時。後ろの座席は大抵上級生が占領している事が多く、前の席はフレッシュマンと呼ばれる1年生がワイワイといつものように賑やかだ。ニコールはソフモア、高校2年生である。

「ハイ!ニコール。」5.19.05

私はそう彼女に声をかけ、空いている隣に座った。CDの音楽をヘッドホンで聞いていた彼女はそれを首にずらし、それから私達は他愛も無い話で盛り上がっていた。

「今日は髪、赤くないね。」

私が言うと、彼女は声をたてて笑った。と言うのも昨日、彼女の金髪の所々が赤く染まっていたのだ。退屈な授業の時に、髪の毛に水性ペンで友達と色を塗って遊んでいたらしい。それにしても髪に色を塗る、黒髪を持つ日本人の私には発想すらしなかった事である。


 ふと、ニコールの首にかけたヘッドホンから軽快なリズムが漏れ聞こえている事に気付いた。

「何聞いてるの?」

そう訪ねた私にニコールはニヤリと意味ありげな笑顔を私に向け、

「聞いてみる?」

と、ヘッドホンをよこしてきた。(なんだろう)と、私はそっとそれを自分の右の耳にあててみた。

  ♪.。* ゚ + 。・゚・思いでは いつも・・・・・・.。* ゚ + 。・゚・♪

「え??日本語じゃん!!」

そう、それはまぎれも無く日本語の曲、私もよく知っているメロディー。タイトルは分からないが、JUDY AND MARY の懐かしい昔の曲だ。そして、その英語バージョンも聞かせてくれた。そしてニコールは「今1番好きな歌手」と言って次の曲に飛ばした。それはまたしてもよく知った昔の曲。

T.M.REVORUTION 、彼が1番ね☆こうやって聞きながら、少しでも日本語の勉強になればと思って。でも難しいー。」

そうなのだ、ニコールは日本に行きたくてしょうがない。そしてマンガから日本を感じ、音楽で日本を感じている。それはアメリカに渡る前の自分もそうだった。ハリウッド映画や音楽にふれ、アメリカを感じていたあの頃。なんだかニコールがあの時の自分に少し重なって見えた。


 
               5月19日 00:25


                              

お隣さん

 今日の日中は28℃5.16.05
を超す真夏日より。私達はちょうど買い物から帰って来たところだった。玄関のドアを開け、外で靴を脱いでいる時の事。

   ガチャリ

お隣さんが玄関を開けた音が聞こえた。私達はそろってそちらの方を見ると、そこにはパジャマ姿に氷を包んだようなタオルを頭にあて、突っ掛けを履いたお隣さんがゆっくりと出てくる所だった。このベトナム人の隣人、年齢は60代後半ぐらいのおばあちゃん。30代半ばくらいの、ちょっと女性っぽい息子と2人で暮らしている。いつも綺麗にお化粧をし素敵な格好をしているおばあちゃん。外に出かける時は何時もサングラスをかけ日傘を差すほどお洒落なのに、今日はどうしたのかしら・・・。

 「どうしたのかなー。」

私達は2人で顔を見合わせつつ、お隣さんにいつものように挨拶をした。すると眉間にしわを寄せ辛そうな彼女は、氷を頭に押し付けながらベトナム語で何やら私達に訴えかけてきた。実はこのおばあちゃん、英語を全く話せない。私達の事は日本人と知っているのだが、今日は一生懸命ベトナム語で何かを告げようとしている。

 私:(転んで頭を打っちゃったのかな・・・)

 彼:(救急車呼んだ方が良いのかな・・・)

 「大丈夫ですか?」

私達は聞いてみるも、返ってくるのは私達の全く理解不能なベトナム語。よく見ると両のこめかみにシップを小さく切ったような物が貼り付けてある。どうやらひどい頭痛に悩まされているらしい。

 「頭痛??薬飲んだ?」

私達は一生懸命彼女を理解しようと、色々と話しかけた。しかしおばあちゃんは痛そうに顔を歪め、氷を押しあてて同じ言葉を繰り返すだけ。たぶん、「痛い、痛い」って言っているんだろう。フィアンセにおばあちゃんを見ててもらい、私は自分の部屋から頭痛の薬持って来、それを彼女に見せた。しかし「もう薬を取ったんだ」とジェスチャーで彼女が言う。うーん、どうしよう。

 そうこうしている内におばあちゃんの表情も徐々に穏やかになってきた。そしていつしか私達2人を指差しながら笑顔で何かを言っている。どうやら、もう大丈夫そうだ。そんなこんなでやっと自分の部屋に戻ってきた私達。しかしまだお隣さんが心配で、玄関のドアを少し開けておいた。いつでもおばあちゃんが訪ねて来れるように。


 しばらくすると息子さんが帰ってきたらしい。開いた隣の窓から家の玄関を通って、2人の元気な声が私達の耳の届いた。もう心配無さそうである。もしかしたらお隣のおばあちゃん、1人の時にひどい頭痛にみまわれ心細かったのかもしれない。

 そして、そっと私達は玄関のドアを閉めた。



             5月15 23:16

アニバーサリー

       5.14.05

 今日は大切な日。婚約記念日。あれからもう2年が過ぎた。

 2年前の今日は月曜日だった。日本の桜のごとく、木に咲く紫色のリンドウのような形をした花が、至る所で満開だった。この日の私は白色のワンピース、彼はしっかりネクタイで明るい色のフォーマルな装い。そして近くの市役所で、密やかに結婚届を提出したのだ。日本ではまだ籍を入れておらず、これを私達の婚約式とした。


『あの頃の未来に僕らは立っているのかな・・・』

こんなフレーズがあった。あの頃、婚約したあの頃、思い描いた2人の未来に今、私達は立っているのかな。考えてみる。確かに近づいて来ていると思う。そしていつかまた、今日があの頃になった時、もっとそこに近づいているように頑張っていこう。



        5月13日

ありがとう、パディー。

 またこの日がやって来てしまった。バスドライバーの交代、イコール・・・パディーとの別れ。以前(関連記事 )ドライバーの運行スケジュールは3ヶ月で交代と聞いていたのにもかかわらず、今回はたった2ヶ月間。早い。短すぎるよ。


 私達のバスの生活も、気付いてみれば既に1年と数ヶ月。そもそもそれは悪い奴に車を盗まれた事から始まった。それまでの生活は車で仕事場と家との往復、片道20分の毎日。変化の無い日々。それがたった1日にしてガラリと変わったのだ。朝は2時間も早く起き、バスの時間に合わせて家を出る。そして、いつもより何時間もバスを利用する為に今までとは違う時間を過ごす。そのエクストラの時間が、私にとても大きな影響を与える事となったように思う。何よりも、1人で考える時間がかなり増えたという事。そして、バス停やバスの中で出会う、数え切れない人との一期一会。狭かった視界がぱぁっと広がったような、もう1つ向こうのアメリカに出会ったような不思議な変化。そしてパディーによって、ネイティブ アメリカンの姿を垣間見る貴重な貴重な経験をさせてもらった。


 パディーとの最後の朝の時間。今日はもちろんフィアンセも一緒だ。

「GIVE ME A HUG!」

彼女の一声で私達はそれぞれパディーとハグをした。会社から配布された彼女の次のスケジュール表を火曜日に貰っていたので、会う気になれば何時でも会える。運行ルートも今までと同じなのだし。しかしやはり寂しい。こういう日は何時でも苦手だ。

「パウワウで会いましょう。」

彼女の言葉に、私達はもう1度抱き合い別れを惜しんだ。

そして最後に私は5.13.05
カバンからカードを取り出した。フィアンセと、彼女に
サンキューカードを用意していたのだ。運転席に座る明るく優しいパディーのイメージからこのカードを選んだのだ。今までの色々なありがとうを込めて。

 そしてまた新たな出会いが訪れる。バスの生活は変化の連続だ。

 

               5月13
日 00:20